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苔生してなお そこに佇む家をつくりたい

田端広子 プロフィール

はじめまして、田端広子です。

昭和47年(1972年)4月26日生まれ。
神戸生まれの神戸育ち。
長田幼稚園~池田小学校~西代中学~長田高校~神戸芸術工科大学

趣味は旬のものを美味しく食べること。
家族は夫(モスハウス田端の代表取締役)と息子二人。

生い立ちから今に至るまで、そして無添加住宅との出会いを熱く語ります。
5分では…読み切れないかもしれませんが、どうぞ最後までご覧ください。

子どもの頃のこと

私が生まれ育ったのは、下町の神戸市長田区。
旋盤加工の町工場を営む父と母の間に、長女として誕生しました。
ふたつ上の兄とのふたり兄妹。
祖母と他界した祖父の弟も同居の6人家族。

だけど、当時住んでいた家は建坪が9坪ほどの狭小長屋。
借家を増築して改築して、なんとかかんとか6人が寝起き。
4人掛けのこたつが食卓。
自営だったから、父も子どもも一緒の時間に食事。
ボロでも狭くても、そこには幸せな家族の時間がありました。

長田高校演劇部

「スチュワーデス物語」をはじめ、職業物のドラマが流行った時代に育った私は、いろんなものに憧れました。
スチュワーデス、服飾デザイナー、漫画家…「女優」になろうと本気で夢見た時期も⁉想像力(妄想力)豊かな女の子でした。

高校時代には演劇部で女優ごっこ?を満喫。
そろそろ大学進学に向けて将来を…しかし、いざ現実となると就職のイメージが沸かず就きたい職業が浮かばない。
ただ漠然と「なにかをつくる仕事がしたい」
でも、何をつくりたいのか、そのために何を学べばいいのか。
わからないままに、創作=デザイン を学ぶために芸大を受験したのでした。

大学は、自宅から通える神戸芸術工科大学に進学。
環境デザイン学科を専攻。
建築はもちろん、ランドスケープや集落、地域といった幅広い分野を学ぶことができました。
斎木ゼミでの集落調査・フィールドワークで淡路島を訪れお世話になった農家の方から大量の大根をいただき…ゼミ室でひたすらに大根料理を食べ続けた思い出が…。

学生時代には、大学内で模型製作、学外でもいろんなアルバイトを経験。
派手ではないけれど、青春を謳歌した4年間。
そこでも私のベースは、狭くて楽しい下町長屋でした。

阪神・淡路大震災

親元から通った大学生活も4年を過ぎ、いよいよ卒業という1995年。
阪神淡路大震災が起こる前夜の1月16日「新年会」と称して大学近くの友人宅で仲間と過ごしていました。
未明の大地震。
揺れがおさまらないうちから自宅を目指しましたが、長田に帰ることができたのは、すっかり日が暮れた頃。
そこには、昨日まであった日常はなく…。
焼け焦げた家、崩れた塀、着の身着のままで逃げ出した近所の人たち。
現実のものとは思えぬ光景がありました。

私の家は、間一髪で火災は免れましたが、全壊。
それでも、家族全員が大きなけがもなく助かったのは
幸運としか言いようがありません。
私が寝ていたはずの部屋の床は抜け落ち、
こたつのあった居間の上へ重なっていました。
狭い狭い家で、唯一誰も寝ていなかった居間だけが、
ぺちゃんこになっていた奇跡。
玄関先に繋がれていた愛犬、アイちゃんまでもが無事でいてくれました。

しばらくは、避難所と親戚の家を行ったり来たりしながらの生活。

震災直後は休講していた大学も、すぐに被災地支援や調査に忙しくなっていました。
避難所暮らしの私も、東京から来ているボランティアチームの活動に加わることに。
被災者と一緒に段ボールで家具を作り、避難所で使おうというプロジェクト。
先の見えない日々の中、手を動かすことで気がまぎれ
「モノをつくる」ことが、私を救ってくれました。

ロープで仕切られただけの避難所が、段ボール家具で間仕切られて
家族の居場所が生まれていきました。
軽くて丈夫な段ボールの家具は、仮設住宅へ移ったあとも活躍。
20年以上経った今も、わが家の子供部屋で本棚として現役です。

教授の勧めもあり、避難所での生活と段ボール家具のプロジェクトを卒業制作にまとめ、3月に無事卒業することができました。

自宅だけではなく、父の営んでいた工場も全壊していました。
家と職場を同時に失った父でしたが、家族や地域のために奔走。
悲観することもなく、ただ、できることをしていました。
「家族が元気でおったら、それ以上は何もいらん。」

私たちは、この震災によって、とてつもなく大きな喪失を経験しました。
昨日まで当たり前だった日常が、一瞬にしてなくなる。
そんな経験をしたからこそ
当たり前のありがたさを、身に沁みて感じるようになりました。

職場結婚、そして出産

大学を卒業し、春からは仮設住宅での暮らしがはじまりました。
親戚の紹介で住宅会社へ就職。仮設住宅からの通勤。
震災特需と言われたほど、建設業は大忙しの状況。
新卒でキャリアの全くない私が、早々に設計担当に。
それだけ、忙しかったのです。
多忙ではありましたが、若い社員も多くて楽しい職場でした。
モスハウス田端の代表取締役 田端健二との出会いも、この頃。
同じ設計課の先輩・後輩の関係。
その後、いわゆる職場結婚というやつなのですが。

結婚したら退職…。
大手住宅メーカーのFC(フランチャイズ)でしたが、経営しているのは地方の材木屋さん。田舎の考えが根強い環境でした。
ですが、私はまだまだ仕事がしたい!
しれっと総務部長に直談判。
あっさりと産休・育休を取らせてもらって職場復帰。育休明けの時短勤務も叶いました。
後から知ったのですが、寿退社しなかったのも、産休を取ったのも
私が初めてだったそうです。

子どもが保育園に入って落ち着けば、また設計の仕事ができる!
そう思っていたのですが、息子が3歳になったとき、私は仕事を辞めました。
長男の雄人(ゆうと)が自閉症、重度の知的障害があると、わかったのです。
家庭と仕事、二足の草鞋を履く覚悟はできていましたが、障害児の母とは想定外です。
子どもと向き合うだけで、毎日疲労困憊。
日に日に、行動範囲が広くなる超多動な息子。
危険予知ができないのに、走る!跳ぶ!叫ぶ!
この子の命を守るだけで精一杯。

諦めました。

母親は、私しかいない。

仕事はあっさり、夫にお任せです。

仕事を辞めたものの、自閉症の息子と一日中向き合うことは大変。
保育園には通わせ続けました。

実家の方では、父が工場を再開。
就業証明を書いてもらうために、昼間は実家の工場を手伝うようになり、
帰りの遅い夫の帰宅まで、私は息子を連れて実家に入り浸りになりました。
夫婦で共にする時間が、この頃はとても少なかったような気がします。
このまま離婚してしまう夫婦もいるんだろうな…
そんなことすら頭をよぎりました。

子どもに向き合う私。
仕事に没頭する夫。
冷静に考えれば、ごく一般的な夫婦の形、ですよね。
少しずつ息子の障害への理解も深まり、私たち家族の形を模索するようになりました。
そして、第二子である次男を授かりました。
この頃には、両方の実家を巻き込み、みんなで子育て。

無添加住宅と出会って

そうしているうちに、仕事の方へも、夫がうまく私を引き戻してくれるのです。
夫が転職した会社が「無添加住宅」と代理店契約。
新たにショールームをオープンすることに。
「看板の文字、何色がいいと思う?」からはじまり、
どんどん自分が携わる仕事への興味を
私に植え付けていくのです。

当時、世間では「自然素材」が注目されはじめていました。
でも、「自然食品・健康食品」同様に、胡散臭い商品や商法が横行してもいました。
健康を売り物にするような気がして、その手のものには抵抗があった私ですが
「体に悪いものは使わない」
いたってシンプルな理念と、そのまんまなネーミング。
直感的に、これならいい。
そして、夫婦ともに「無添加住宅っていいやん!」
そう思うようになっていったのです。

家を持つなら早い方がいいと言っていた夫。
でも、勤務する会社の建てる(新建材の)家が気に入らなかった私。
思いは長く平行線でしたが
「無添加住宅なら、いいやん!」
そうして、自宅を建築することになったのが13年前。

一生に一度の大きな買い物。
お互い専門分野のことですから、子育て以上に議論は白熱。
断熱・日照・風通しに関しての夫の知識と経験は
ブランクのあった私にとって想像以上のもの。
生活動線については、私の意見を尊重してもらい
夫婦での共同設計、第一棟目の完成!

自宅の完成をきっかけに、私はコーディネーターとして復帰をしました。
お客さまとの打合せも現場での打合せも、大変だけど楽しい!
自分たちが気に入って、これだ!と思って建てた家だから
お客さまにも本音でお勧めできる。
こんなに楽で楽しいことはありません。

無添加住宅と出会って

そのうちに、

無添加住宅をもっと知りたい!もっと理解したい!

仕事への欲と好奇心がむくむくと湧き上がってきました。
参加できる研修に、かたっぱしから参加。
そこで出会った秋田憲司という人は、
社長らしからぬ風貌の、気さくな西宮のおっちゃん。

しばらく話すと、感じました。
この人の話すことには、嘘がない。
なんでも自分で試してみる。調べてみる。
そうして得た知識や経験を、惜しげもなく教えてくれる。
研修を通して学んだことは、無添加住宅を売ることではなく

長持ちする、快適な家の作り方

秋田さんの話は
面白くて、深くて、突拍子もないようでいて、とっても科学的。
私は、一気に秋田ワールドの虜になりました。

そうはいっても子どももまだ小さく、限られた時間をやりくりする日々。
そんな中、Facebookは私にとって魔法のツールでした。
時間も場所も選ばず、全国の人と繋がれる!
そこにはパートだから、障害児の親だから、なんてハンデはなく
思ったまま、感じたままが発信できて、全国の人と思いを共有することができました。

Facebookから、いろんな企画が実現しました。

秋田さんとジビエバーベキューがしたい!
秋田さんの作った発酵食品が食べてみたい!
上級プランナー研修のその上の研修を受けたい!

2013年の秋には、無添加住宅のルーツを巡るヨーロッパ視察旅行にも参加してしまいました。
秋田さんのガイドで巡る、フランス~アンドラ~スペインの村々。

瞬きするのがもったいない。

目に映るもの、聞こえてくる音、空気。

全てが新鮮で衝撃的でした。

何百キロものバスでの移動。
車窓の山々の色や岩肌が変化する。
そして、そこに建つ家の屋根や、壁の色が変化していく。
採れる石や土が変わると、建築の色が変わる。
赤土が採れる村では赤い瓦が焼かれ、粘板岩が取れる村では石屋根が葺かれる。

そして、何百年も経って今なお暮らしが営まれている石葺きの家の前では、
築100年の家は新築扱い。
日本で100年と言えば、十分に古民家と分類されてしまう現実。
数百年とは言わずとも、子や孫の代まで住み継げる家をつくれないのか。

「無添加住宅ならそれができるんよ。」

という秋田さんのことばに
これはやるしかない。
ひとつの決意が生まれた旅でもありました。

苔生してなおそこに佇む家をつくりたい

満を持して2014年10月。
勤めていた会社を離れ、夫婦で新たに無添加住宅正規代理店となる決意をしました。

背中を押してくれたのは、やはり秋田さん。
社名を付けるにあたっても、相談しました。
しかし…何十個と挙げた候補はことごとく却下。
「はい、もっとよく考えましょう」とのメッセージ。
そして、最後に考え抜いたのが「モスハウス」

苔生してなおそこに佇む家をつくりたい

ヨーロッパの家を見て、強く感じた思いと決意を込めて。
秋田さんも、これには花まるをくれました。
「夫婦二人の会社やから〈田端〉を付けた方がいいよ」とのアドバイスを添えて。

「お客さんのためになる家を真面目に作っていけるのは
 田端さんらみたいな小さな会社。
 応援するから。」
そう言ってもらって、何の不安も迷いもなくなったことは言うまでもありません。 

2019無添加住宅デザインアワード受賞

息子の障害をきっかけに、一度は仕事を離れた私ですが
縁あって、今また住宅の仕事をしています。
一度はすれ違いそうになった私たち夫婦ですが
今は24時間顔を突き合わせて、一緒に家をつくっています。

秋田さんの生んだ無添加住宅。
私たちが惚れ込んだ無添加住宅。
本を読んで、ホームページを見て、無添加住宅を建てたい!住んでみたい!
そう思って訪ねてきてくださるご家族と共に
「苔生してなおそこに佇む家」を目指した家をつくる喜び。

今ある日常は、
震災や、息子の障害や、無添加住宅、秋田さんとの出会い
それらすべてとつながっていて、
何かに導かれたように、今日があるような気がしています。

当たり前の日常を大切に、今日も明日もこの仕事をしていけることに感謝。
そして、これから家を建てられるご家族が、当たり前の日常を、永く、幸せに
続けていける舞台を一緒に作っていきたいと思っています。